高校球児の皆さん、練習やってますか??
こんにちは。
本日から「加治やんの高校野球講座」を始めます。
小学校2年生の頃から野球を始めて、中学・高校・社会人野球まで経験することができましたので、それまでの知識や体験してきたことをベースに高校球児に向けて情報発信をしていくつもりです。
是非宜しくお願いします!
まずは自己紹介をしますね(⌒ ⌒)
小学生の頃
埼玉県で生まれて八潮市というところで育ちました。
私には2歳上の兄がいまして、いつも兄の真似をする弟だったので、兄が「野球をやりたい!」と言うので「じゃあ僕も!」ということで小学校2年生の時に野球を始めました。
リトルリーグとか本格的なものではなく、地元の少年野球連盟のチームです(元々は子供会のチームですね(笑))。
入部している子供の父親が監督、コーチをやっているようなチームです。
私は小さい頃から背が大きくて、背の順は高校までずーっと一番後ろでした。
記憶があるのは小学校3年生で140㎝を超えていたこと、小学校を卒業するときは171㎝だったこと、です。
しかも左利きだったんですよ。
なので、野球を始めてからすぐにコーチから「お前はピッチャーをやれ!」って言われてピッチャーをやり始めました。
もちろんすぐに試合には出られるはずもなく、ファーストを守ったり、外野を守ったりしていました。
小学4年生になって、先発ピッチャーを任されることが多くなりました。
けども、全然ストライクが入らず毎回試合を壊していましたね(泣)。
1イニングすらもたない、という試合はたくさんありました。
惨めな気持ちになって試合中にも関わらずマウンドで泣いたりしてました。
今思えば、当時の監督(Hさん、ありがとうございました!)が将来を見込んで使ってくれていたんでしょう。
その年はチームとしてほとんど勝つことができず・・・。
本当に一番最後の試合で初めて勝つことができて選手はもちろん、親たちとみんなで喜んだ記憶があります。
5年生になってからの記憶はあまり無いんですけど、だいぶまともに投げられるようになったはずです。
体力がついたんでしょうね。
6年生になって、私の才能が開花しました(笑)。
もう無双状態でしたね。
今でも当時の年間成績を覚えているんですけど、46勝7敗、優勝4回、準優勝3回というものでした。
私が所属していたチームの歴史でいくと当時最高だったと思います。
投げれば速い球だし、打てば遠くに跳ぶし、走れば一番速いしで。
強烈に覚えているエピソードは「4打席連続敬遠」です。
ある大会の決勝戦で全打席敬遠されたことがあります。
最後の打席は満塁で回ってきた打席だったにも関わらず敬遠されたほど警戒されてたんですよ。
私みたいなのがプロ野球選手になるんだろうなって思ってました(笑)。
これだけ結果が出ていたので一番楽しかった頃ですね。
中学生の頃
中学に入って、1年夏はファーストでレギュラーとなり背番号3、それ以降は3年夏までずっと背番号1でした。
一年生の時の監督が非常に厳しく熱心な先生で、中学野球の特徴である細かい野球を教わった記憶があります。
二年生からは野球をやったことが無い先生が監督になったので、キャプテンを中心に自分達で練習内容を考えて取り組んでいました。
ピッチャーとしてのランニングメニューを自分で考えてやっていました。
まあね、中学生なので自分に甘いところは多分にありましたけども・・・。
とても楽しくやっていた気がします。
いつの時だったか、ある大会で隠し球と二塁牽制をして暴投したと思い込ませるトリックプレーを成功させたことがあり、自分達で考えた作戦がうまくいってめちゃくちゃ嬉しかったことがありました。
県大会前の地区大会は八潮市・越谷市合同で開催されており、その決勝戦まで行くのが精一杯でしたね。
なかなか上に勝ち上がれず満足行く成績を残すことができませんでした。
高校生の頃
高校は地元の私立強豪校に進学しました。
いわゆる特待生ってやつです。
同じ中学校の友人2名とともに入学しまして、一緒に寮にも入りました。
練習はキツイし、先輩は怖いし、監督に至っては最高に怖いしで、入部して1日でやめたいと思いましたね^^;
ただ、私は運がよくて1年夏にベンチに入れさせて頂いて、県大会決勝で勝利し甲子園出場を決める瞬間を先輩達と同じグラウンドで体験できたのは良かったなと思っています。
高校の時はなかなか結果が出ず、悩みながら練習をしていた記憶があります。
強豪校で1年夏からベンチに入れさせてもらうような選手は、その後ずーっとレギューラーとして活躍していくのが普通ですけども、私は全くそうではありませんでした。
背番号の変遷は記憶を辿ると以下の通りです。
1年夏:20
1年秋:11(関東大会に出場するもベンチ外)
2年春:11
2年夏:1
2年秋:1
3年春:11
3年夏:1
特に3年の春はきつかったです。
ストライクが全然入らなくなり、一時期サイドスローにしてみたり試行錯誤していました。
3年の5月中旬に東海大相模とオープン戦をやった際、あるプレーで開き直ることができ、そこから良くなっていった記憶があります。
結局自分達の代になってからは県大会ベスト8止まりで甲子園には出ることが出来ませんでした。
途中、後に大学や社会人、プロで活躍する選手と一緒にプレーしたり、対戦したりしたのは貴重な経験になりました。
会社に入ってから
私は、高校2年の頃から大学には進まず社会人野球の道に進みたいと考えていました。
高校の監督が伝手を頼りに社会人チームに掛け合ってくれて、無事入社することができました。
1年目は割と投げさせて頂きましたね。
社会人チームは大学生とよくオープン戦をやるので、その時に結構投げさせて頂きました。
大学生とも言えども、私にとってはほとんど年上。
それも相手は東海大学や明治大学といった大学の中でも強豪でした。
ですが、違和感無く投げることができ、私としては大学生相手なら何とかなる、という自信がありました。
しかしながら、良かったのはここまで。
その後2年目はケガもあって登板機会は大幅に減少、3年目は登板機会無し(しかもチームの中で唯一)という状態でした。
3年目は特に苦しかったですね。
いわゆるイップスに陥りました。
最悪の時はロクにキャッチボールすらできませんでしたし、ティーネット相手に暴投を放ったりしていました。
今まで何をやってきたんだろ、と自虐的になって野球が嫌になりました。
自分から監督に「辞めさせてください」といって野球を辞めました。
社会人野球の経験で胸を張って「頑張った」と言えるのはライバルチームの分析作業です。
都市対抗野球大会の予選前に、マネージャーが持ってきたライバルチームのビデオ映像を私が編集する役を担っていました。
打者、投手ごとにビデオテープを入れ替えてひたすら録画ボタンを押すわけです。
当時、私が持っていたのは「テレビデオ」でしたよ。懐かしいですね(笑)。
また、打者が打った打球の方向を書いて一目で傾向がわかるようにしました。
プレーではチームに貢献できませんでしたが裏方としてはそれなりにできたかなと思っています。
まとめ
私の野球人生はそんな感じです。
楽しいことがたくさんあったし、つらいこともたくさんありました。
その中で、それぞれの場面で多くのことを学べました。
そして野球をやめてからもたくさんの学びを得ました。
私としては「野球ばかりやってきて他のことは何も知らない」というコンプレックスがありましたので、多くの本を読んで勉強してきたつもりです。
その学んだことを是非多くの方に伝えたいと考え、このブログを立ち上げることにしたわけです。
「分かりやすい記事、内容」を目指して続けていきますので今後とも宜しくお願い致します!
加治やんより
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